シリーズ16の7<チェコ・プラハ編>NO3
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DAY24:2023年8月19日(土)その3
~バーツラフ広場へ~
プラハ最初の観光は、ホテルのすぐ近くにある「バーツラフ広場」です。

ホテルから地下鉄で1駅で「バーツラフ広場」に行くことができます。
地図の紫色マーカーが「バーツラフ広場」です。
「バーツラフ広場」は「広場」というより「通り」のようです。

地下鉄「ムゼウム駅」の目の前に「バーツラフ広場」があります。

ちょうど、地下鉄「ムゼウム駅」から上がってきたところです。
振り返ると見える立派な建物は「チェコ国立博物館」です。
バーツラフ広場(通り)の始発点ともいえる建物です。

博物館の前に立っているのはボヘミア王「バーツラフ4世」の騎馬像です。
視線の向こうには、「プラハ城」があります。
ボヘミア最初の王と言われている「バーツラフ4世」は、国難が迫った時に、何度も自ら手兵を率いて敵を撃退したという伝説の人物だそうです。
~記念撮影の意味~

バーツラフ広場で、Sくんも飽きれるくらい何枚も記念撮影をしました。
「プラハの春」
「チェコ事件」
「ビロード革命」
「チェコ共和国の成立」
など重大な歴史事件を目撃してきた超有名な広場に立つことができて感動しているぼくです。
ぼくは、チェコに来たら、ぜひ訪れたかった場所です。
1980年代終わり頃から、旧東欧諸国はソ連による支配から脱却するために様々な形態で独立を勝ちとっていきます。
・東西を隔絶していた壁を叩き壊したドイツのような国、
・支配者を捕らえて死刑にしたルーマニアのような国、
・全く血を流さずに新しい国を築き上げたチェコスロバキア
など国ごとに本当に様々です。
20歳代後半になっていたぼくは、あの当時、チェコスロバキアの「ビロード革命(ベルベット革命とも言います)」の動向をテレビや新聞で見聞きして、なぜ民衆の力、団結する力だけで新しい体制を誕生させることができたのか不思議で仕方ありませんでした。
その後、いろいろな情報を得ながら、ただただ、その時だけの、その場だけの結果ではなく、長い間の地道な抵抗の歴史の成果であることに気付いてはいきますが、その時は、とにかく
「すごい国だなあ」
と思った覚えがあります。
すごいと思っていたその国を今、訪れ、民衆の力、民衆のエネルギーの密集したこの広場に立つことができて、感無量です。
その気持ちを記念撮影という行為でしか表せないのは残念ですが、、
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~バーツラフ広場を散策~

バーツラフ広場は、プラハ一の繁華街です。
「プラハのシャンゼリゼ」と例える人もいます。



長さは750m、幅は何と60mもあると言います。
60mもの幅だから「通り」のような形状なのに「広場」と言われているのかもしれません。せっかく来たのだから、端から端まで歩いてみることにしました。
歩きながら、
「こんな大きな通りにソ連の戦車が侵入してきたんだな」
とか、
「ここがパラフさんが焼身自殺をはかった場所だ」
とか、
「このビルのテラスからハベルさんやチャスラフスカさんが演説したんだな」
などと、知っているわずかな知識から場所を特定しながら、チェコスロバキアの歴史を自分なりに振り返っていました。
~「プラハの春」以降のチェコの歴史~
この広場は、チェコの歴史を語る上で欠かせない場所です。
チェコの歩んできた「プラハの春」以降の歴史をごく簡単に振り返らせてください。
<プラハの春>

1968年4月、改革派のリーダーであるドプチェクさんは、チェコスロバキア共産党第一書記に就任しました。
それを機に、ドプチェクさんは、チェコスロバキアの民主化に着手しました。
ドプチェクさんが進めた民主化の具体的な施策は主に以下の3点です。
・党内に民主化を推進する改革派人材の登用
・検閲制度の見直し→言論の自由の保障
・新しい共産党綱領(こうりょう)→「人間の顔をした社会主義」を目指す
(骨子:社会主義が民主主義を否定するものであってはならない)
この3点の施策により、国内では以下の動きが加速しました。
・新たな政党の結成
・西側諸国の文化思想の流入
・多様な考えや議論の活発化
・知識人を中心とした「二千語宣言」
→旧体制へ戻ることへの絶対反対表明
→ドプチェク路線への強い支持
このような政治的な動きを「プラハの春」と呼び、チェコスロバキア国民は、熱烈に歓迎しました。
<ソ連による民主化弾圧(チェコ事件)>
しかし、その流れは、ソ連によって叩き潰されます。

1968年8月、ワルシャワ条約機構軍(中心はもちろんソ連軍)が、このバーツラフ広場に戦車を乗り入れ、チェコの芽吹き始めた民主化路線を粉砕(ふんさい)しました。
・首都プラハの制圧
・ドプチェクさんら改革派リーダーの逮捕、連行(ソ連内の監獄に)
・反対派市民への暴行、逮捕、拘留(もちろん死者も多数)
・改革派の政治的一掃(いっそう)
・ソ連の息のかかったフサークによる民主化否定政策
など自由が制限された以前よりも息苦しい「正常化」路線が始まります。


それに対抗する形でチェコスロバキア市民は、デモやストライキにより大規模な抗議活動を展開しますが、その都度、ソ連やソ連をバックにしたフサーク政権に弾圧され続けます。
抗議活動の象徴的な一つの出来事が、学生ヤン・パラフさんの焼身自殺です。
1969年1月、パラフさんは「ヴァーツラフ広場」騎馬像の前で焼身自殺をはかったのです。
この「プラハの春」を粉砕(ふんさい)した一連の流れを「チェコ事件」と呼んでいます。
<お詫び>
*どんどん、旅とは話がそれていってしまいました。
すいません。
まだ、その後の「市民による抵抗活動」とか、チェコ市民が無血で革命を成し遂げる「ビロード革命」とか、チェコ好きのぼくとしては、書きたいことが山ほどありますが、今回は、これくらいにします。
次回スペースがあったら、続きを書かせてください。
~「米が食いたい、、」~
「バーツラフ広場」の端から端まで歩いたら、さすがに、お腹が減ってきました。
まだ、6時にはなっていませんが、お店探しです。
食にはあまりこだわりのない2人ですが、その時はなぜか、
「米が食べたい」
という要望が合致しました。
やはり、日本人はある期間、米を食べていないと、体が欲するものなんですね。
でも、日本料理店は、避けた方がいいという暗黙の了解があります。
これまでヨーロッパを巡った経験上、日本料理は高いということが身に染みています。
だから、こんな時には、やはり、「中華」です。

スマホなどの情報で選んだ「宝城」という本格的?っぽい中華レストランです。
さて、おいしい「お米」は食べることができるのでしょうか?
(第3話、終わりです)
(第4話:「ホテルの深夜」です)
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