シリーズ16の7<チェコ・プラハ編>NO13
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DAY26:2023年8月22日(火)その1
昨日は、爆弾犯人に間違えられそうになり、とてもハードな一日を過ごしました。
今日は、「プラハ観光最終日」です。
というより、この旅最後の観光日です。
でも、昨日のショックがまだ、癒えないのか、冒険心とか好奇心とか活動意欲とかいうものが高まってきません。
こんな時は、無理せず、平穏(へいおん)に過ごすのがいいのだろうと思います。
とりあえず、今日の予定は「旧市街広場」に行くことしか決まっていません。
~旧市街広場へ~

ホテルからは、昨日と同じルートで「旧市街広場」(青色矢印)へ行きました。

プラハの心臓部と呼ばれる広場だそうです。

「旧市街広場」は、当ブログでも何度か登場した「ヤン・フス」さんの銅像を中心とした広場です。
フスさんの銅像を取り囲むように見どころが集まっています。


「旧市街広場」の朝です。
まだ人出は多くないようです。

ぼくの気持ちとは、裏腹に雲一つない快晴です。
ヤン・フスさんの銅像の向こうに見えるお城のような建物は「ティーン教会」です。
~裸のブルース・リーに、、~
広場の南側には、木立に囲まれた、日影があります。
日差しが強いせいか、人々は、その日陰のベンチに涼を求めて座っています。

人々の中に、一際(ひときわ)目立つ一人の男性がいました。
上半身裸です。
シモン・セトニキさんです。
最初は、かなり怪しい感じがしたので、ぼくたちは、なるべく関わらないようにしていました。
ウィーンの最後に起こった「スキンヘッド男事件」のような巻き添えはこりごりです。
(まだお読みではない方はぜひクリックしてお読みください)
昨日、あんな刺激的な出来事を経験しているで尚更(なおさら)です。
向こうが、ちらちら、こちらを見ても、目を合わせないように、あまり近付かないようにしていました。
上半身裸の姿は、やはり、違和感を感じたのだと思います。

でも、警戒感満載のぼくたちを見ても、シモンさんは動じることなく、ぼくたちに目を合わせてきます。
そして、遂には、近付いてきて、シモンさんの方から、話しかけてきました。
シモンさんが、あまりに警戒心がなく、無防備で、無邪気にアプローチしてくるので、ぼくたちの警戒感も緩み、ついつい相手をすることになります。
シモンさんは「ブルース・リー」さんの大ファンのようです。
チェコ語(だと思います)なのでよく理解はできませんが
「ぼくはブルースリーが好きだ」
と、さかんに言っているように聞こえます。

そして、上の写真のようなブルースリーさんの得意のカンフーのポーズをとってきます。
だから、ブルース・リーさんを真似て上半身が裸なのかもしれません。
なぜ大勢の人がいる中で、ぼくたちにちょっかいを出してくるのか不思議でした。
考えられるのは、ぼくたちが東洋人だったからかもしれません。
東洋人を見ると、ブルース・リーに近いものを感じるのかもしれません。
ざっと、見回しても確かに東洋人は、ぼくたちしかいません。
(会話が、全く通じなかったので、全てぼくの想像でしかありませんが、、)
会話が通じない理由は、英語が通じなかったこともありますが、翻訳アプリを口に寄せてくれません。
嫌なのかどうか分かりませんが、スマホを口元に寄せるとすぐに振り払います。
その振り払うポーズが、いかにもブルース・リーさんが敵を追い払うポーズに似ています。
ぼくたちは、思わず苦笑いです。
シモンさんは、そんなことはお構いなしに、満面の笑みでぼくたちにチェコ語(だと思います)で話し続けます。
だから、ぼくたちも日本語でしゃべりかけます。
「ぼくたちは、日本人で、ブルースリーは香港人だよ。
東洋人がみんなブルース・リーじゃないよ。
あなたは、もう少し腹(はら)の肉を落とさないと、本物のブルースリーにはなれないよ」
などと勝手なことをしゃべります。
シモンさんには絶対に通じないと分かりながら、なぜか、3人でげらげら笑っています。
どんどん楽しい雰囲気になってくるのが分かります。
シモンさんは、話しかけてくるだけでなく、手を握ってきたり、肩を抱いてきたり、カンフーのポーズをとって技を仕掛けてきたりします。
そうすると、どんどん、距離感が近くなります。

そのうち、この笑顔です。
何をしている人なのかとか、どこの生まれなのかとか、全く分かりませんでしたが、何となく気持ちが通じて仲良くなってしまいました。
シモンさんは、ぼくの持っていたスケッチブックを見ると、シモンさんの方からペンをとり、積極的にメッセージを書いてくれました。

シモン・セトニキ
1985年12月29日生まれ
ブルース・リー
OK
と書いてくれました。
今回の旅、17人目の交流人です。
ぼくたちより24才も若い青年です。
2まわりも年上のこんなおじさん相手にいろいろ遊んでくれたことに感謝です。
そして何より、昨日のトラウマでふさぎ気味だったぼくの気持ちをハッピーにしてくれたことに、大・大・大感謝です。
本当に出会えてよかったです。
何が何だか分からない不思議な時間でしたが、なぜかあの屈託のない笑顔が今でも忘れられません。
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~ヤン・フスさんと念願のツーショット~
シモンさんのお陰で、沈んでいた気分が、ずいぶん癒(い)えてきました。
ようやく、観光気分になってきました。
「旧市街広場」に歩いて行くことにしました。

広場の中央にいるのが「ヤン・フス」さんです。

ぼくは、この旅に出る前に、ヤン・フスさんについて少し学んできました。
NHK・BS「城 王たちの物語 プラハ」という番組を中心に学びました。
そして、ヤン・フスさんがなぜチェコ市民に慕われていたのか知ることができました。
今回、ヤン・フスさんの銅像に行ったら、どうしても、ツーショット写真が撮りたいと思っていました。
念願がかないました。
~なぜ、ヤンフスさんの銅像が広場の中心に~
ヤン・フスさんとは、
どんな人物なのか?
チェコ人にどんな影響を及ぼしたのか?
なぜ広場の中心に置かれているのか?
など少しだけ説明させてください。

ヤン・フスさんは、14世紀末のチェコ人の司教です。
今から600年以上前の人物です。
チェコ人にとって「歴史上の偉人」「宗教上の偉人」と言っていいと思います。

カレル4世の死後、チェコのカトリック界は、腐敗・堕落していました。
権力闘争に明け暮れ、民衆からは不当に金品をかすめ取り、教会内には売春宿まであったそうです。
そして、集めた金品をローマ法王に献金献上し、それらは、戦争のために使われていました。
上の写真の絵は、当時のチェコ人から見たカトリック指導者の様子です。
悪魔が法衣を着ています。

特に、人々に不公平感を与えたのが「免罪符」です。
法衣を着ている悪魔が手にしている紙のようなものが「免罪符」です。
当時、裕福なドイツ系住民は、どんな大罪を犯しても、大金を払い免罪符を買えば罰せられることはありませんでした。
一方、貧しいチェコ人は些細なことでも罰を受ける不公平な世の中だったわけです。
要するに「お金で無罪が買える」「お金があればどんな悪いことをしても大丈夫」という不公平・不条理な世の中だったわけです。

そんな、腐敗しきったカトリックに真っ向から異を唱えたのがヤンフスさんです。
ヤン・フスさんのベツレム教会では、多くの貧しいチェコ人が集まり、ヤン・フスさんの説法に熱心に聞き入ったそうです。
「今の教会の腐敗や堕落の原因は聖職者の不道徳にある」
「この悪魔の軍団は、まやかしや中傷で人々を惑わせている」
「堕落した教会に従うのはやめ、聖書の言葉に忠実に生きよ」
と熱心に説いたそうです。

教会側も黙ってはいません。
ヤン・フスさんを「神への冒涜者(ぼうとくしゃ)」と決めつけ、
ドイツにまで呼びつけ、宗教会議にかけたのです。
上の絵が、宗教会議にかけられているヤン・フスさんです。
ヤン・フスさんは、何を言われても自説を曲げず、遂には火あぶりの刑に処せられます。

ヤン・フスさんは、燃えさかる火の手の中「真実は勝つ」と叫びながら、刑の執行を受けたと言われています。

その後、数百年経っても、チェコ人の中にヤン・フスさんへの尊敬や敬慕の念は消えませんでした。

特に、ヤン・フスさんの理念を大事にし続けたのが、チェコスロバキアの初代大統領マサリクさんです。

マサリクさんは、生家をキリスト教「フス派」の教会に改築しました。

さらに、フス教の教えを広めるためにフス教の聖書を作成し、人々に広く伝わるように活動しました。
もちろん、当ブログの「プラハ城」大統領府のところでも紹介しましたが、「真実は勝つ」を大統領旗に選定したのもマサリクさんです。
このように、ヤン・フスさんは、600年以上経った今でもチェコの人々に尊敬され続けている人物です。
だから、チェコの人々の心の中心にヤン・フスさんがいるように、「旧市街広場」の中心にはヤン・フスさんがいるのだと思います。

ヤン・フスさんの銅像を見た後は、お城のような「ティーン教会」に行こうと思います。
(第13話、終わりです)
(第14話:「旅の観光最終日」です)
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