シリーズ16の7<チェコ・プラハ編>NO7
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DAY25:2023年8月20日(日)その4
~レノン・ウォールへ~
プラハ城周辺の観光を終えて「レノン・ウォール」を目指しています。

「レノン・ウォール」は「カレル橋」へ繋(つな)がる途中の小路にあります。

発見した時には小躍(こおど)りしたくなるくらいうれしかったです。
プラハの大観光地のように大規模の物ではなく、裏通りにあるので、発見するのは結構大変でした。
~なぜこの地に「レノン・ウォール」が?~
なぜ、レノンさんの出身地でもないこのプラハのこの場所にジョン・レノンさん所縁(ゆかり)の「壁」があるのでしょうか?
そのヒントとなるテレビ番組が、旅の出発前に偶然にも放送されました。
NHK「アナザーストーリー」という番組です。
松嶋菜々子さんがMCのあの番組です。
タイトルは「~ジョン・レノン そして”イマジン”は名曲になった~」です。
皆さんもご存じの「イマジン」が、いかに世界の人々の間に浸透し、政治的思想的にどんな影響を与え、重大な歴史的事件にどのように結びついていったのかを掘り起こす番組でした。
その重要なエピソードの一つにチェコスロバキアの「ビロード革命」が取り上げられていたのです。
<イマジンとレノンさん>

イマジンは、1971年に発表されました。
ビートルズが解散した1年後、ジョン・レノンさんがソロ活動を始めたばかりの頃です。
発表当時は、注目を浴びるほどの楽曲ではなかったようです。

ご存じの方の方が多いと思いますが、「イマジン」の歌詞の一部です。
人が人を殺したり、争いごとを起こしたりする背景には「宗教」とか「国家」とか「民族」に代表される「ボーダー」が存在するのだということに気付かされるフレーズですね。
そんなものを取っ払ってしまえば、「平和」になれるのに、、
そんな壁やボーダーのない世界は、いくらでも想像できるんだよ、、
(想像できるということは実現できるということだよ、と言っているのだと思います)
と、レノンさんが教えてくれているような歌詞ですね。
<「イマジン」前後の世界の動向>
「イマジン」発表前後のチェコスロバキアの情勢を少しだけ紹介します。

1968年のことです。
ドプチェクさんによるチェコ民主化の動き、いわゆる「プラハの春」の芽吹きです。

その年の夏には、ソ連により民主化の動きは粉砕されてしまいます。(チェコ事件)
その後、チェコスロバキアは以前にも増して、言論・思想統制に拍車がかかり自由のない抑圧された暗黒の社会になっていきます。
もちろん、西側の音楽は、取り締まりの対象です。
「プラハの春」で西側の楽曲の素晴らしさに気付いていた若者にとって、ビートルズは、憧れの的です。
取り締まられて黙ってはいられません。
若者たちは、西側諸国のラジオ放送から、密かにビートルズやジョン・レノンさんの情報を仕入れていたのです。
<世界中に衝撃!レノンさんが、、>

そんな中、一つの大事件が起こります。
ニューヨークにいたジョン・レノンさんが射殺されてしまいます。

世界中に衝撃が走ります。
19才の誕生日(12月7日がぼくの誕生日です)を迎えたばかりのぼくもこのニュースには大きな衝撃を受け、深い悲しみが湧き上がったのを今でもしっかりと覚えています。

情報を聞きつけ集まってきた何百人という若者たちが、レノンさんの冥福を祈って「イマジン」を大合唱した話は有名です。
<チェコ・プラハでも動きが、>

その壁は、もともと社会への不満や落書きが書かれていた裏通りの名もない壁でした。

ある日、レノンさんが亡くなったことを知った一人の若者が、レノンさんを追悼(ついとう)するお墓を作ったのです。

その壁に、いつの間にか、レノンさんを偲(しの)ぶ若者たちが集まり、追悼の思いを書いたり、集会を開いたりする場になっていったのです。
そのうち、誰が名付けたか分からないうちに「レノン・ウォール」と呼ぶようになりました。
時には、共産党政府に対する不満をぶちまけたり、理想国家について話し合ったりする場ともなりました。

そして、1987年12月8日に騒動の引き金になる集会活動が起こります。

その日は、レノンさんの7回目の命日を兼ねた追悼集会が開かれたのです。
いつも以上に大規模で600人以上の若者が集まったと言われています。

追悼をしているだけなのに、チェコの共産党当局は解散を命じ、命令に背く若者たちを根こそぎ連行したのです。
国家権力の横暴に若者たちは怒り、憤(いきどお)ります。
そして、この事件をきっかけに、政治に対して普段無関心だった若者たちをも立ち上がらせるきっかけになるのです。
これを機に、大規模な若者たちのデモや集会活動が定期的に起こるようになっていきます。
<周辺諸国の動き>
おりしも、ソ連では、ゴルバチョフさんが書記長となり「ペレストロイカ」を始めます。

間もなく、彼は、東側諸国への締め付け(内政干渉)はしないという方向性を示しました。

それに呼応するかのように、東側諸国が動き出します。
まず、「ベルリンの壁」を破壊するなど東ドイツの民主化路線が決定的となりました。

チェコでもその流れが若者たちの背中を押しました。
もう一つ、背中を押してくれたのが「イマジン」です。

プラハだけでなく地方の学校でも学生たちが民主化を求めて、授業のボイコットやデモ行進、大集会など行動を起こし始めました。

そのような集会やデモなどで歌われた曲が「イマジン」でした。
「イマジン」は若者たちだけでなくチェコ市民の心を一つにする役割を果たしていくのです。

次第に、デモ隊とデモ隊が合流し、デモ隊の規模がどんどん大きくなっていきます。
しかし、デモ隊の規模が大きくなっても、暴徒化する者はいませんでした。
暴力、略奪、放火など凶悪な行動に出る者がいなかったので、当局も手の出しようがなかったと言います。

当局がデモを抑制しようとすると「私たちは丸腰よ」といって暴力で対抗しようとはしなかったのです。

そうした市民の大きなうねりの中で、とうとう、武力衝突なしにチェコ共産党幹部が総辞任することになりました。

ここに、長く続いたチェコスロバキアの「共産党一党独裁」が終わりを迎えたのです。

血を一滴も流さない、平和の中での「革命」が成功したのです。
レノンさんの願いがこのチェコスロバキアの地で実現したのです。
「イマジン」が、人々の平和の意識に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。

こうして、この「レノンウォール」は、民主化を実現してからもプラハ市民にとっては、忘れられない、忘れてはならない「壁」となったのです。
民主化の出発点ともいえる場所ですから、、
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~現在の「レノン・ウォール」~

現在の「レノンウォール」です。
世界的にこの壁の存在が知れ初めたので、何重にも重ね書きがしてあり、何が何だか分からない状態です。
でも、この状態は、チェコが自由に物を考え、自由に表現できる、自由な国になった証拠です。

Sくんも隙間を見つけて何か書いています。
隣の女性たちは、ぼくたちの持ってきたマーカーに目を付け
「貸してよ!」
と笑顔でお願いしてきました。
ぼくたちは、スケッチブックに「平和メッセージ」を書いてもらうために何本ものカラーペンを日本から持ってきていました。
だから、1本や2本は何でもありません。
「もちろん、よろこんで!」です。
彼女が手にしているペンは、ぼくたちのカラーペンです。
誰からの干渉も受けず、誰の目も意識することなく、自由に表現できるこの「レノン・ウォール」は、プラハの宝です。

ぼくも、もちろん記念に何かを残していくことにしました。

遠慮深く?小さ目です。
実は、書けるスペースがほとんどないので、これが限界です。
「Peace is Forever」
レノンさんの願いもこれなのではないかと考えた末の最短の文言です。
(ピンクの文字のLEEさん、上書きしてすいません)

みんなが、記念撮影するスポットです。

さすがに、「LENNON WALL」のタイトル文字の上には重ね書きはしないようです。

その辺の節度があるところは「さすが!レノンファン!」です。
みんな幸せそうな笑顔です。

「レノン・ウォール」の脇で回っていた水車です。
ブルタバ川の流れのように、ゆっくりゆっくり回っていました。
「レノン・ウォール」も一朝一夕(いっちょういっせき)でできた壁ではありません。
長い歴史の中で、多くの人々が願いを込めながら、少しずつ築き上げた「壁」だと思います。決して、観光用・営業用にある日突然できた壁ではありません。
ぼくたちも、もちろん一観光客ですが、そういった歴史的背景や人々の願いを少しでも理解して訪れるべきだと痛感しました。
歩き疲れたので、そろそろ、休憩したくなりました。
チェコの冷たい生ビールでも飲みながら、何かつまみたいところです。
(第7話、終わりです)
(第8話:「カレル橋へ」です)
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